詳しくは書きませんが、まずは修行風景を写真でお届けします。
それでは、今回の修行を通して感じたことを書いていこうと思います。
まず、心が露わになって解き放たれて、自然のままに揺らされる感覚を味わえたのは貴重な経験でした。人間は普段の生活をしているときは、自然の力に直撃を受けないようにいろんなものに守られて生きています。それは人間の生み出してきた知恵でもあるわけですが、時として余計なものにもなりえます。それらを剥がしていって、直に自然と肌身を接することができる経験はなかなかありません。自分の限界に近い山登りをしているときにはときどきそれに近い感覚は味わえて好きなのですが、完全にそう感じるときは遭難するときかその一歩手前でもあります。それを感じることができたことの意味はまた追い追い考えていきたいと思っていますが、昔の人たちはそうやって高山の環境に浄土と地獄を見ていたのでしょうね。
今回は、前回はやらなかった行もいくつかありました。その中でやはり山駆けは本職そのものなので苦しくはなかったのですが、他の行は大変で辛いものもいくつかありました。それらを比べてみると、簡単に一言で言ってしまえば「慣れ」の問題かなと感じました。
象徴的だったのは滝行でした。今回は前回とは段違いの本格的な滝。雪融けで増水した滝でした。考えてみると、打たれる前に負けていました。その激しい流れを見て身構えてしまった、すなわち滝に対して完全に後手に回ってしまったのです。最初から淡々と打たれることのできる人は少ないと思いますが、経験を積むにしたがって、予想がつくようになり、先達は「混ざる」と表現されていますが、身構えずとも平常心に近い状態で淡々と受け止め、受け流せるようになっていくのではないでしょうか。
それをいろんな行でできるようになってくると、自分の限界もいろんな方向に広がっていきます。さらには行でやらないような様々なことにも敷衍化して対応できるようになる。それこそが修行の持つ力と可能性で、だからこそ、山伏は普通の人が持たない力を持った存在だと考えられてきたのだと思うのです。そして自分もそうなれたらと願うのです。
また来年からも続けていきたいと思います。時が満ちたら、秋の峰入りにも。