少々堅苦しい話で恐縮ですが、なんでこんなことを始めたかということを記しておきたいと思います。
登山ガイドとして山を仕事の種として使わせていただき、また、この地に住んでいく以上、自分が山に対して地域に対して何かしら還元し、自分の味を遺産として加えて後世に引き渡すのは、義務だろうと、そんな想いを持って田村は日々山に入っています。そのこともあって、一見地味な地元の山を歩いたり、猟をしたり、山伏修行をしたり、山のいろんな面白さを掘り起こそうとしているわけです。街道歩きは場所によっては峠越えを含んでやさしい山よりよっぽど大変なこともあるので、山のガイドの技術を生かすことができますし、特に善光寺道(逆向きに捉えれば伊勢道)は巡礼の道という側面が強く修験道と重なる面もあるので、山を含めた昔の人々の宗教観や歩くという行為の身体的感覚を感じ、理解し、その面白さを伝えていくことができるかなと、そんなふうに感じています。
さて、今回は松本のひとつ善光寺寄りの宿場の岡田宿から刈谷原峠を越え、刈谷原宿、会田宿と歩きます。
宿場の入口にはお地蔵さま。 |
そして道祖神。 街道には欠かせないものです。 |
こちらが本陣跡。さすが大きなおうちです。 |
そもそも岡田宿の成り立ちは、、、というお話。 「仇坂」とも呼ばれた急登の刈谷原峠越えを控えているため、その手前に宿がないのは 都合が悪いということで、江戸時代に北国西脇往還を整備した際に松本をモデルに造られた 新しい宿場です。参勤交代の際に、城下を練り歩く装束と旅の装束を替える場としても機能しました。 |
いまも当時の旅籠の面影を残すいづみやさん。 |
宿場の出入り口の道は鍵の手や枡形と呼ばれるクランク状になっています。 攻められたときの防御を考えたものです。 |
出たところには岡田口番所跡と、北国西往還と江戸海道の分去れ(分岐)。 |
写真では見にくいですが、「左 せんくわうし道」「右 江戸海道」です。 「海道」とはこはいかに、という感じですね。 一番の主要な道であった「東海道」からの連想で元々は「海道」と書かれていたのが、 海に沿っていないのに「海道」はおかしいということで、新井白石が「街道」の表記に改めたそうです。 |
街道筋だけに立派な蔵です。 |
蓮台場(十王堂跡)には馬頭観音が集められて安置されています。 |
宿を出て峠へと向かいます。 |
本日最初の一里塚です。 |
途中の集落、当時の感覚でいえば「村」にも道祖神がたくさん残ります。 |
国道254号線との立体交差ですが、「本道」の北国西往還の通行を妨げないような構造になっています。 とはいえ、盛り土をして立体交差とまではしていないので、当時の感覚ではそのくらいの力関係だった ということですね。ちなみに岡田宿内には、交通量は北国西往還の方が少ないのに、そちらの方が 優先の交通標識が立っているところがあり、さすがだなといつも感心します。 |
どんどんと山へと進んでいきます。 |
左 松本道、右 むら道 道標がしかるべき位置に残されていると、どちらから来たどんな人に向けた道標かよくわかります。 この道標の場合は、我々とは逆に進む人に向けたものですね。 |
いつもは車窓から眺めるだけの風景ですが、歩いてみると想像通りの美しさ。 やはり一番人間の体感に合っているのでしょう。それを感じることができるのが歩きの良さです。 このあたりは問屋原といって、岡田宿が整備される前に暫定的に問屋が置かれた地で、 その後に岡田宿が整備されることになってから、その問屋さんは岡田宿に藩命で移転しています。 |
さて、道はいよいよ山へと入っていきます。 |
とてもきれいに残っている馬頭観音様です。 昔は馬も峠越えでだいぶ亡くなったことでしょう |
峠を目の前に分去れです。 右の刈谷原峠は専ら歩いて越える道、これに対して左の馬飼峠は、明治になってから峠の向こうの 四賀方面から松本にお蚕さんを届けるために刈谷原の有力者が開削した荷車の通れる道です。 なんと当時は有料道路だったとか! |
長くなってしまったので、そんなところでまた峠越えから続編に書きたいと思います。。。